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本日のめでたい5周年にこの記念講演の機会を与えていただきました吉田会長に心からお礼を申し上げる次第でございます。
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自分の顔に責任を持つ
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人間40歳になると自分の顔に責任をもてということが昔からいわれております。40になった場合においては、自分の人生に対して、また社会に対して1つの責任を感ずる。その責任が顔に表われるという意味でございます。まこと名言だと私は存じております。これと同じように、私はロータリーも創立して5周年を迎えますとそのロータリーはそのロータリーの名称に責任をもつべきではないかというように感じる次第でございます。そういう意味におきまして、本日のこの高松西ロータリーということばそのものが私には非常に重厚に響くわけでございます。
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まず家庭と仕事から
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さてホッジスと申しますRIの元会長でございます米合衆国の商務長官までやった方でございます。ホッジスがこういうことを申しております。ロータリアンは奉仕活動をしなければならない。しかしその奉仕活動をする前にそのロータリアンは自分の仕事に成功しなければならない。家庭生活に成功しなければならない。この仕事に成功し、家庭生活に成功した場合の社会奉仕、職業奉仕が初めてほんものであるということを言われております。
そういう意味から私たちは、まず家庭生活ということを無視してロータリー活動はあり得ないということを主張する一人でございます。
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高遠な理想の発端は
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もう1つはロータリーは非常に高遠な理想を掲げております。しかし1905年初めてシカゴにロータリーが生まれますまでには、決してそう今日考えるような高遠なものではなかったように文献は報じております。いいかえますと、ロータリーが生まれたというのはきわめて卑近な動機でございます。よく文献に書かれておりますが、あの4人のシカゴの男がさみしくてさみしくて何か求めておるという、その求めたものが友愛であったということでございますが、その友愛を求めた4人の家庭というものを十分に考えてみますと私たちは非常な印象を受けるんであります。ご承知のようにポール・ハリスは、ポール・ハリスが満3歳のおりにその家庭は破産をいたしております。おとうさんが非常に何といいますか、浮気と申しますか、非常にものごとにこり性でありまして、いろんなことにこった関係上、自分の職業が失敗に終わりました。おかあさんは非常な浪費癖があり金さえあればいろんなものを買うというような癖がございました。こういう関係でついにポールハリスが3歳、兄が7歳、それと1人の妹という家族は一家は離散におちいった訳でございます。私はこの一家離散に入りました時期が、ロータリーが陣痛を起こした第1歩と見ておるのでございます。もしポール・ハリスが順調な家庭生活で終われば円満な家庭で、案外ポール・ハリスはこれだけの大事業をやらなかったのではないかというようにも考えるのでございます。しかもポール・ハリスは満3歳で、父、母、兄、妹と別れましておじいさんとおばあさんの住むニューイングランドの山の中のウォーリングフォードという山の中の一寒村にあずけられたのでございます。
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家庭に恵まれないハリス
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ここでそのおじいさんが極めて厳格なおじいさんでありまして、おばあさんがきわめて情愛深いおばあさんだったということが、ポールハリスに家庭というものをきわめて印象象深くその頭脳にうえつけたと思うんでございます。ポール・ハリスはここで17年間、おじいさんとおばあさんの教育を受けております。このとき順調にいけばまたポール・ハリスは一介の弁護士、或いは一介の商人として終わったかもしれませんが、このポール・ハリスの第2の家庭もおじいさんの死去ということでついにまた離散をするはめにおち入ったのです。おじいさんが死にました時はポール・ハリスは丁度大学に入っておりましたが、おばあさんのもとに帰りましたときにおばあさんが言ったことばが、ポール・ハリスが死ぬまで忘れ得なかったことばであったそうでございます。そのおばあさんの申しましたことばは、ポールよ、おじいさんはおまえにきわめて大きな期待をかけておったよ、おじいさんがよく言ったのは、自分は人間生活に失敗したが自分のこの失敗を回復してもらうのはポールである、おまえであると、よく言ったのであります。とにかくおじいさんのこの期待にそむかない人間になってくれと、繰り返し言われたことばが、ポール・ハリスの耳に残っておったそうでございます。こういうようなきわめて家庭的に恵まれなかったポール・ハリスであります。そのポール・ハリスが23歳で大学を卒業いたしまして、あと5年間
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荒廃のシカゴで見たもの
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ポール・ハリス自身放浪の5ヵ年と呼んでおります、この5年間いろいろな職業につきいろいろな世の中の困難を味わったのでございます。しかも最後に到達したのが弁護士を開業するということであってシカゴにまいりましたのが28歳のおりでございます。このシカゴにまいりますと、ご承知のようにその当時のシカゴはゴールドラッシュと申しますか、とにかくアメリカはもちろん世界の各地から一旗あげようという連中が集まっていた時代でございます。きわめて人心は荒廃し、友情というようなものはどこにも発見できなかった時代でございますが、ポール・ハリスが自分の親しい弁護士と夕飯をいただきまして、あと2人で町を散歩にまいりました。そのとき友人の弁護士がある町並みの店に入り込みまして家族、主人はもちろん家族とあたかもそこの店の家族であるかのように親しく話し合う場面を見たのであります。これが第2のポール・ハリスがロータリーをつくった動機なんであります。シカゴの人心は荒廃しておる。しかし、われわれが友愛をもととして誠意を尽くせばあのような場面もつくり得るのではないかというような考えをもって何かそういう集まりをつくりたいと考えたのが第2のロータリーをつくった原因でございます。事実シカゴロータリーが1905年に生まれますときの最初の4人と申しますのはご承知のようにジルベスターシール、石炭屋でございますが、このジルベスターシールは両親がドイツ人でございます。両親がドイツ人でしかも非常に貧困な家庭に生まれております。
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創立の4人は“家庭”を熱望
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それからもう一人のガスロール、いわゆる鉱山の設計をする鉱山技師といわれておりますが、ガスロールもまた両親はドイツ人でございます。しかもガスロールはあまり十分な教育も受けられなかったような家庭でございます。このロールは数年後にロータリーを脱会し死亡しておりますが、決して家庭的に恵まれた男ではなかったのでございます。
またもう一人のハイラムショーレー、洋服屋さんでございますがこのハイラムショーレーもやはりメイン州からの移住者の一人でございます。
こういうように最初ロータリーを創立したポール・ハリス含めて4人という方々は、家庭的にきわめて恵まれなかった、楽しい家庭を熱望した人々なんでございます。
こういう意味からまずロータリーの創立というものを考えるときに、人間の家庭というものを無視するわけにはいかないというように私は考えるのでございます。
終戦後、コミュニケーションとかコミュニティというようなことばが、ようやく日本に入って参りました。コミュニケーション、いわゆる何と申しますか、お互いが理解し合うと申しますか、お互いが関連性を持つと申しますか、コミュニテイ、いわゆるその自分の住む地域と申しますか、こういうような問題は戦前は日本ではあまり考えておられなかったのでございます。と申しますのは、日本の町づくりというものは元来が2つに分かれております。1つは神社、仏閣を中心としました城下町でございます。もう1つはいろいろな商工業の集散地に人が集まってできた町でございます。ですから町そのものがおのずから1つの、お互いの関連性を持っていたのでございます。いいかえますとお隣りも、お向かいも皆何らかの意味において、私たちはその家庭の連係を持っておったわけでございます。ところがアメリカにおきましては、ことにシカゴにおきましては先ほど申し上げましたように裸一貫で一旗上げて、一もうけしようというような人々の集まりでございます。お隣りを考えたり相手を考えたりする暇のない人種の集まりだったんでございます。そこでコミュニケーション、コミュニティというものが必要だということが生まれてきたわけであります。
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偽善者の行動をするな
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で、ロータリーはいま申し上げましたように私はまずロータリーにおけるコミュニケーションは家庭から起こらなければならないということであります。ホッジスが申しますように家庭生活がうまくゆかずに外に出て、職場に出て、国際的にコミュニケーションをはかるというようなことは全く偽善者の行動でございます。 そういう意味において真のロータリアンはまず家庭の奉仕からということを私はずっと言い続けておるものでございます。と申しますのは夫には夫としての責任もあり仕事もございますが、また家族に対する1つの奉仕をしなきゃならない義務もございます。奥さんは奥さん、子供は子供、皆お互いにコミュニケーションを持っている、その奉仕を実行しなければならないんであります。そういう意味から申しまして、やはりロータリーは四大奉仕をする前にまず家庭において十分な奉仕者でなければならないということを申し上げた次第であります。
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ハリスは42歳で結婚
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もう一つ私が申し上げたいのは、ポール・ハリスは1947年に79歳で死んでおります。ポール・ハリスの奥さんは未亡人生活を16年やりまして82歳で死んでおります。しかもポールハリスと奥さんとの間には子供はございません。ポール・ハリスが結婚をいたしましたのは42、奥さんが29歳でございます。
アメリカにはいまの日本のようにいろいろレクリエーションを目的とした集まりがございます。ハイキングを日曜、休日にハイキングをするのを目的にした1つの集まりがございます。ポール・ハリスはそのメンバーでございましてある休日の日に、シカゴの郊外にハイキングにまいりました。そこでいろいろ、郊外で遊んでおりますときに有棘鉄線がひかれておる所に入りまして、洋服をその有棘鉄線の針がねにひっかけまして一部洋服を破いたんでございます。このポール・ハリスの破れた洋服をすぐその場でつくろってくれたのがジーン・トムソンと申しますイギリス生まれのオールドミスでございます。このジーンと3ヵ月の交際の後、ポール・ハリスは結婚したんでございます。そのときポール・ハリスは先ほど申しましたように42歳、ジーンは29歳決して両者とも結婚の年齢としては早いほうではございません。しかし2人は結ばれましたあと、いい家庭をつくりたいということに非常に熱情をこめておりましたが、2年後にシカゴの郊外にちょうどポール・ハリスが17年間住みましたウォーリングフォードの山あいに似たような渓谷がございまして、そこに初めて家をつくったんでございます。ですから結婚後2年して初めて夫婦の家庭生活というものが1つの順調な道に入ったというわけでございます。しかし2人の間には不幸にして子供がございませんでした。
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“みじめ”だった夫人の老後
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でポールハリスはよく口ぐせに自分には子供がない、しかし自分にはロータリーという娘があるからということを負けおしみでなくいっておったそうでございます。しかし、ポール・ハリスが79歳で1947年に亡くなりましたそのあとは、奥さんのジーンはその2人の結婚生活で楽しい生活を送った屋敷を売り払いまして、シカゴのあるアパートの一室に住んだんでございます。そのアパートに住みながらいわゆるいまの老人ホームと申しますか、そういうようないわゆる世の中に、不幸で生活が一人で行なえないで収容している施設にまいりまして、いろいろ奉仕をしておりました。そのジーンもついに一人の孤独な生活をいつまでも耐えることができずにスコットランドのエジンバラという自分の生まれ故郷に帰っております。エジンバラにおる弟と妹の住むエジンバラに帰って老後を送ったんでございます。そして82歳で亡くなりました。1965年だったと思います。私がガバナーをやった翌々年と思います。65年なくなりました、そのときの様子をあとで聞いてロータリアンはほんとうに目に涙を浮かべたんであります。と申しますのは、あの華やかなポール・ハリスの生活に比較しまして、ジーンが亡くなりまして教会でお葬式をしたときには花輪1つあげる人がなかったそうでございます。まことにあの輝かしい奉仕生活を送ったポール・ハリス夫婦の功労に対してはあまりにもみじめだったと思うんであります。これでも私たちはやはりロータリアンとして、家庭というもの、またコミュニケーションというものを考えなければならないという1つの暗示を与えられるわけでございます。以上、私はあまり皆さんの口に上っておらないロータリーの何か裏話をしたようなことになってまいりました。ロータリーがそんなにユウウツなものかというようなお考えの方もあるかと思いますが、決してそういう意味で申し上げたのじゃございません。ロータリーはただ単に華やかな花道を通るだけでなく、こういうような裏面もあったんだということを常に頭において、私たちはロータリー活動をしなければならないということを申し上げたいのが私の本心でございます。
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ユーモアと謙虚さと・・・
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そこでロータリーは非常に堅苦しいということをいわれております。堅苦しいけれどもロータリーにはいわゆるユーモアもあり、また謙虚な一面もございます。その点を一つ申し上げまして、先ほどの何か非常に悲しい面のつぐないにいたしたいと思う次第でございます。
これは日本であったことでございます。1936年に、ことしの秋も私たちと368区が年次大会を行ないます神戸の年次大会で見られたことなんであります。そのときその当時の1936年当時のガバナーが朝吹常吉さんという実業家でございます。お若い方はあまりご存じないかと存じますが、明治大正の方であれば十分ご承知の有明な実業家でございます。この朝吹ガバナーに年次大会で1年間のガバナーとしてのご苦労に対して感謝の意を表そうということで第70地区の皆さんから胸像が贈られることになったんでございます。その贈られました胸像の除幕をいたしましたのが大阪商船の社長をされておられた直前ガバナーである村田省三さんがその除幕を行なったんでございます。私はお目にかかったことはございませんがいろいろお写真とか、いろいろ拝見したところ朝吹ガバナーという方は非常に豪傑と申しますか、むずかしい顔貌をされた方なんでございます。いいかえますと非常に魁偉な面貌を持たれた方なんでございます。この朝吹さんの像ができましてその除幕式をいたしました。贈呈式のことばとしまして、直前ガバナーの村田省三さんが、これはまことにお粗末でございますがということをおっしゃったのでございます。ところがお粗末といえば朝吹ガバナーの風貌にあたっては困るというのであわててりっぱなものと申し上げてお贈りいたしたいんでございますが、といってまたことばをにごしたんでございます。
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失言にユーモアで返す
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実際に於て、どうひいき目にもりっぱなご面相といわれない朝吹ガバナーの顔そのものが胸像に表われておったんでございます。そう申しまして除幕をし、その胸像を差し上げたんでございます。そのときにお礼のことばとしてお立ちになった朝吹ガバナーが、私の後後の子供、孫におまえの先祖にこういう醜い男がおったんだということを、十分伝えるために大事に保存をいたしますというごあいさつをしたということでございます。まことに時宜を得たユーモアと申しますか、一同どうなることかと心配しておったのが、ドッと大きな笑いの渦になったそうでございます。
こういうように遠慮ない発表をし、またそのことばをそのまま善意に受け取ってユーモアで返すというところにロータリアンとしての私は非常にりっぱなところがあるということを考えるものでございます。
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会長選挙ののエピソード
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また1967年、その翌年でございますが国際ロータリーの年次大会がアメリカでございました。そのときにやはり次期R.I.会長を選ぶ選挙がございました。ここ十数年ほとんど会長選挙というのはございません。と申しますのは、もう事前に会長選考委員とかいろいろな機関がございまして、そこで大体の人選をいたしまして、年次大会ではただ拍手でそれを迎えるのがいまの状態でございますが、1937年にはやはりそうでなく、2人の候補が立候補いたしたのでございます。1人はヘガーといいましてロータリーの現状では、ロータリーの発展はむずかしい。大いに新改革をすべしという旗がしらを掲げて立候補したヘガーでございます。もう1人のストリートは現状でいいじゃないか、現状を必要に応じて改善すればいいのであって、何も特別に改革する必要がないという現状推持を目標に立候補いたしました。このストリートとヘガーのいずれを会長に選ぶかということが年次大会の選挙に移ったわけでありまして、堂々巡りの選挙をいたしました。その結果現状推持を主張したストリートは、1,933票、それから改新すべしということを主張したヘガーは2,116票という僅か183票の差で票決が終わったのであります。いよいよこの票の結果を発表しょうという段取になった時に一人の立派な紳士が会場の隅から立って緊急動議がある、という発言があったんでございます。非常に緊張した選挙のあとだけに、みんなはその緊急動議がどんなものであろうかということで注目をいたしておりましたところが、その1人の発言者は堂々と壇上に上がりまして、この選挙は2人の票決をやらずに1人にしばって全員一致で票の多い2,116栗という票をとったヘガーに全員で賛成しようではありませんかということを、緊急動議を出したわけでございます。極めてわずかの差で選挙を終わったばかりの時で皆、何のことか意味がわからなかったのでございます。そのときにその発言者は「と申す私は立候補しておるストリートでございます。私はですから立候補をとりやめますからして全員一致でヘガーを次期会長におそうではありませんか、ということを緊急動議いたしたのでございます」と述べました。こと真意がわかるまでには数分かかったそうであります。その真意がわかると同時に会場はわれんばかりの拍手が起こったそうであります。そこでいよいよストリートは立候補を辞退し、ヘガーが全員満場一致で会長に当選したというような詰も残っております。これもまた私はロータリーの非常にいい面を表わした1つではないかと思うのであります。
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ロータリアンに花道はない
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私はここ1、2年よく申し上げることはロータリーには花道はない。俳優が踊る舞台はある。が、花道はない。また花道で踊る必要もないのであって、選挙された役員は舞台に立って活動する。その自分の任期が終われば静かに舞台裏に下がって、舞台裏の仕事をする。舞台裏とその舞台と、この2つしかないのがロータリーでございます。ではロータリーという劇場には観覧者はいないのかといわれますが観覧者一般地域住民でございます。地域の人々がこれを見ておるのであります。そういう意味から私たちは役員をひいたからロータリーとの縁がうすくなったというような考えがあるとすればこれはもう一ペん再検討しなければならない問題でございます。役員に推薦されました方は当然舞台で華々しく仕事をしなきゃなりません。その人たちが舞台で仕事のしやすいように舞台裏でいろいろな仕事をするのが前役員であり、またこの次に役員になる方であり、すべてのロータリアンであることであります。こういう点が最近日本とは申しません。世界の風潮として少しうすれてきておるのではないかということを私は心配する一人でございます。ほんとう申しますとロータリーには、私は会長と幹事とあればそれでいいんではないかというぐらい極端な考えを持っておるものの一人でございます。結局ロータリーはみんなが会長でありみんなが幹事であるべきなんであります。傍観者が一人でもおるということは、そのロータリーが活動をあまりしておらないという証拠でございます。そういう意味で私はロータリーには観覧者はいない。またロータリーは舞台で踊る人もあれば楽屋裏で働く人もあるということがいまもまだ生きておることでなければならないというように考える次第でございます。
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「あほかいな」の意味
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色々と申し上げましたが、私はそういう意味におきましてこの高松西ロータリーが5年間にこれだけのいい業績を上げられましたということはいま申しましたメンバー全部が会長であり幹事であるということで、いままで奉仕活動をやられた結果だろうと思います。よく皆さんもご経験と思いますが、幹事という仕事は一番いやな仕事なんでございます。この幹事につきましてもおもしろい話がございます。関西のある大きなロータリーのメンバーでいまはパストガバナーになっておられますけれども、非常に熱心なロータリアンがございました。その方は何年か継続して幹事をおやりになりました。それで第何回目かの幹事留任のとき、お帰りになって奥さんに、「わし、また来年幹事や」いいましたら奥さんが「あほかいな」といったんでございます。このあほかいなということばをただ単にアホととっては申し訳ないんであります。私たちはこのあほかいなをロータリー式に解釈いたしましたのでございます。「あほ」Aは、アビリティでございます。非常に能力があるということばであります。「ほ」のHはオーナーでございます。名誉でございます。何回も幹事に選ばれるということは実に名誉なことである。あほのHOのOはオポテュニティでございます。機会でございます。こんなに何回も奉仕の機会を与えられたということはまことに感謝をすべきことである。そういう意味で奥さんはご主人に「あほかいな」というおほめのことばを出したというように私たちは解釈いたしたのでございます。
こういうように物も考えようでございますけれども、とにかく家族あって、家庭あって初めて私はロータリーがうまく運営できると思っております。よく昔、出席が悪い方には奥さんあてに何月何日は例会です。どうぞご主人のご出席を、というハガキをやったところがございます。私はこれには全く反対なんでございます。そんなに奥さんをバカにしちゃいけないというのであります。
その意味でまずわれわれはロータリーの四大奉仕をする前に家庭において家族に奉仕しようじゃございませんか。家族に奉仕をして家族がロータリー精神に徹して、初めてその地域活動、またその職域活動というものが完成するというように私は考える次第でございます。
ご静聴ありがとうございました。
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