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稲井 敬一郎

体の現況

体重

73Kg、身長165cm、胸囲95cm、血圧156〜178、100走30秒、
弱遠視(車の運転には差支なし)

趣味

庭いじり、ゴルフ(ハンディ36)

9人

 

 

 

 と、76年の年賀状を頂載してまだ2年余、その時、あの堂々たる体格、スポーツマンでいられる岡崎さんが御他界されるなんて、誰が考えられたでしょうか・・・。
 3月某日昼頃、長尾先生より電話あり、“手術をしたが余りかんばしくなさそうだ”とのこと、急ぎ中央病院へかけ付けると、廊下では原内会長、赤井幹事が心配そうに様子を見守っている。病室では、岡崎さんは酸素吸入を受けながら、寝るが如くおだやかに休まれているのにくらべ、唯周囲のあわただしさが総てを物語っているようでした。
 想えば、岡崎さんには、戦後青春を賭け、過された朝鮮より、リュックサックを背に、助かりし御子息を両手につれられ、戦後の混乱と荒廃のなか再び起き上ろうとする御努力は並大抵のものではなかったでしょうか。然し、これにも屈せず種々事業を計画され御苦労を重ねて今日まで種々の重責を果され、仕事の面は勿論、社会事業にも大いなる足跡を残された事は、岡崎さんの世話好き、物事にくよくよしない生来の快活スポーツマンスピリットのせいといえるでしょう。勿論人の世、人には語れない御苦労もあったかと思いますが、そんな蔭は微塵も出さず、いっもサッパリとしたその性格は、我西クラブ中でもっとも敬愛されたお人ではなかったでしょうか。特にロータリーの思想と行動の本質を、生まれながら備えられていた岡崎さん・・・その上、ロータリーに籍をおく事により、この土壌の中で更にはぐくまれ崇高なまでもロータリアンとして成長されたお方であったと信じているのは、私ばかりではないと思います。特に西クラブ国際奉仕に於ける韓国事業は、圧巻として、クラブ会員に深い感銘を与えた特筆すべきものではないでしょうか。

 若き岡崎さんは、京城師範学校をご卒業された後、辺地に赴任され教師としての第1歩を踏み出されました。国境を超えた師弟愛・・・当時の日本人と韓国人とのギャップをかえりみず、教師と生徒と云う関係、人間と人間の関係、肌と肌のふれ会いを尊重された教育が実を結び、それが今日まで続いている事実を、同行させて頂いた牙川小学校の校庭で、又当時の生徒の今なお師を慕う態度、会話など、あらゆる機会にあふれ出ていた事は、同行者の一員として本当に胸をあつくさせられ、眼にジンと来る事計りでした。決して上手を云う訳ではないし、意識してされる事はないのでしょうが、滲み出る善意と云うものが、人に伝わり慕われるのが岡崎さんの人徳であったと感じさせられます。
 「僕が恩給をもらえlるようになったのは、韓国のおかげだ。だから、毎年一回は訪韓して皆んなに会うのが勤めだと思っている」と話された事があります。又忙しい中、師範学校の同級生で病臥されている方を見舞われ、先方では手に入らぬ薬を持って行ってあげたり、教え子の皆んなに会えば何か手みやげの一つでもと、ボールペンを択山持って行かれた事もありました。このように岡崎さんは、太腹でありそれでいて非常によく気の付く一面をも持ち合わせておられました。
 そうであればこそ、企業合同の難しい事業を発展させて行く起動力になったのではないかと思いますと共に、地域業界の指導者として永年主責にあり、その結果として監授褒賞を頂いたのも宜なる哉と思います。
 78年春の家族会で“稲井さん、手術をしてもらうので暫くうまいものが食べられないから、今の内にうんと栄養を付けておかないといかんからな・・・”と、おとなりの席で何の屈托もなく召上っておられた岡崎さん。人生無情と云うも余りにもこれはど儚きものを感じさせられるものはありません。おしみても余りある人をお召しになりロータリアンとしてもほんとうにおしい心で一杯ですが、お子様もそれぞれご立派に成人され、人生のキャンバスに立派な作品を残された岡崎さん。どうか安らかにくつろいでお眠り下さるよう、ロータリアンー同心よりお祈り申し上げます。