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長尾初次記念事業委員長
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吉井理事長ご紹介
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只今三宅先生の古い懐かしい写真を見せて戴きまして,あゝもう20年経ったのかなあとしみじみ考えさせられます,逸見さんの髪も黒かったし,懐かしい一幕だと思います,当時私も丸刈りでして,私のスライドが出なかったのは有難いことだと思います,角刈りで何処かの何かのようだったと記憶しております。
処で今回私達西ロータリークラブが20周年記念事業として二科会にお願いし,高松で二科展を開くことが出来ました。ただ二科展と申しましても皆様方には馴染みが深くないと思います,本日わざわざ東京から,二科会理事長がお出で下さいました,この機会に二科についてご紹介戴きたいと思います。
吉井先生は二科会の理事長であられると共に,東京ロータリーのメンバーでもあります,私共と同じロータリアンでございます,そう云う意味でも今回大変ご協力戴きました。
有難く感謝致しております。
では二科会についての歴史なり,二科会についてのお話しを先生にして戴きます,二科会理事長吉井先生をご紹介致します。
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ご紹介戴きました吉井でございます。
只今三宅ガバナーの大変立派な,上手なお話しのあとで,私の聞き栄えのしない話で下手の上に一寸喉を痛めておりますので,お聞き苦しいと思いますが,あしからずお許し下さい。
只今ご紹介がありましたように,私はロータリーとは無縁な者だと思っておりましたが国立近代美術館の館長だった安達さんに,日本画の東山さんと私を東京ロータリークラブに紹介されまして,私はそういう処は苦手でありましてお断りしたのですが,前の洋画の部が私の師匠であります和田英作先生でして,先生の後なら断る訳には参らんだろうと云うので,現在東京ロータリークラブの油絵部門で会員になっております。
今日は奇しくも高松西ロータリークラブ創立20周年記念式典に参加出来まして大変嬉しく思っております。
この度高松西ロータリークラブの主催で立派に出来あがった市立美術館で第73回二科展が開催されまして有難いことだと思っております。
実は今朝のテープカットの際,ロータリーの皆さん,市の関係者の皆さんにお礼を申しあげるべき処を云いそびれ,此処で改めてお礼申しあげます,「どうも有難うございました」
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二科は画壇の中ではわりと知られている方でありますが,それでも余り馴染みが無いかも知れません。
二科会の話しをする前に,一体日本に何時洋風画が這入って来たか一寸簡単に申しあげまして二科会の話しに移りたいと思います,その方がわかりいゝと思います。
天文18年西暦で申しますと1549年約440年前にザビエルが鹿児島に参りましてキリスト教を布教しました,そして長崎とか熊本,あの辺の殿様まで信者になられ信者数,拾数万人,教会にして200位あったと云われています。
ご承知のように教会には祭壇画が飾られておりますが,祭壇画が足りないので,それでは日本で描こうという事になり,それが日本の洋風画の始まりであります。
そして島原の乱まで約80年続くわけです,その後キリスト教が禁止になり約80年位空白時間があります。
亨保6年1720年にキリスト教以外の本の輸入が認められ長崎に医学,天文,土木,兵法の本などいろんな本が這入り長崎は新らしい学問のメッカとなったわけですが這入って来た本の挿絵が銅版画でありまして,これは銅版に蝋を塗り絵を描き,弗素をかけ腐蝕させます,それが板になりまして,そのような挿絵が一杯ありました。
それまでに日本に無かった立体感とか遠近法に興味を持った絵かき達が銅版画をやる事になり,司馬江漢,この人は地動説を称えたり,封建制を批判したりした人ですが,この人が銅版画に成功するわけです。
又この人は高松出身の平賀源内という人がおりまして高松から長崎に勉強に行き,脱藩して江戸に渡り幕臣になろうとしてなれなかった人ですが,そういう人とも司馬は交流があったようです。
その他にも欧亜堂田善という人も洋風画を取り入れた絵を始めた人です。
そのようにして段々と洋風画の関心が高まりました。
円山応挙,円山派あれは写実なんです。
狩野派の装飾性を取り入れた写実,あれも幾らか洋風画の影響を受けていると思います。
そのようにして段々日本にも洋風画が這入って来るわけです。
安政4年明治になる10年位前ですが,幕府に蕃書取調で,蕃書とは洋書のことですが,そこに絵図取調方が出来,川上冬崖という方がおられた。この方は絵を描くよりも学問的なこと,オランダ語とか英語が出来て学問的に大変絵画に貢献した人でありその任につきました。
これが明治政府に引継がれ種々名前が変りましたが最後に帝大になります。
その川上さんについた高橋由一,横山松三郎,英国から帰朝した国沢新九郎らが明治6,7年頃に東京の町に画塾を開き,そこに絵の好きな人が集まり段々洋風画に対する関心が拡がって行くわけです。
明治9年工部美術学校が虎ノ門あたりに出来,イタリーからフォンタネイジという画家を呼んだ,この人はおとなしい大変いゝ絵を描く人ですが自分の理想が実現出来ないと思ったのか,あるいは日本が肌に合わなかったのか2年程して帰国した,その後に来たフェレッチが余り評判が良くなかったり,色んな問題があって長く続かなかった。
工部美術学校には後で日本の画壇に貢献した人々,名前は一寸ど忘れしましたが,明治画壇で活躍した人々が生徒として,其処に這入るわけです。
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そして明治21年2月1日,今の芸大の前身,美術学校が出来ました,その頃は既に相当のレベルにあったようで,先日近代美術館で明治中期の展覧会がありまして,原内直次郎,川村信男とか技術的には相当な域まで来ていた。
免に角明治21年2月1日に美術学校が出来,19才で帝大を卒業した岡倉天心が学長となる,岡倉天心は19才で帝大を卒業し文部省に這入り29才で美術学校の校長となるわけです。
其処で一寸申しあげたいのは,明治10年に帝大の文学部哲学の講師として来た,フェノロサ,というアメリカ人がいますが,フェノロサと岡倉天心がいろいろ日本の美術について勉強研究するわけで,日本に此の様な立派な美術があるのに,なんで西洋画をやるのか,そこで反動的国粋主義というか,折角興りかけた洋画を圧迫するわけです。
明治15年の農商務省主催の絵画共進会には「油絵は出品するを得ず」と。
これは本当か嘘か知りませんが当時洋画を習う画学生が自殺するという話が残っております,岡倉天心が校長になったからかどうか判かりませんが,恐らくそれも原因でしょうが美術学校が出来たのに洋画部は無いわけです。
これは適当な教授がいなかったから出来なかったのか,岡倉天心がそのような考え方を持っているということで創らなかったのかその辺の事は判らないわけです。
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黒田清輝は鹿児島の方ですが法律を勉強する為フランスに行きまして,向こうで法律の勉強をせず絵かきになって,明治15年頃行って明治26年に日本に帰って来ました。
明治29年に美術学校の洋画部の教授になり私の先生の和田英作も助手,助教授という名目で美術学校に引張られたが,まだその分では無いという事で,和田先生は美術学校に這入り,一年居て第1回の卒業生です。
夕暮れに渡し船を待っている野良帰りの人達を画いた絵がありますが,それは和田先生の卒業制作の絵であります。
明治22年に明治美術会が出来又明治29年には白馬会が出来てそういう会にみんな出品したわけですが,明治40年に牧野さんが文部大臣の時に初めて文部省主催の展覧会が出来ました,文展ですね,文展が出来そのうち問題が起こりました。
前の年に賞を貰った人が翌年落っこちたり審査員になるべき人が審査員にならなかったり,いろんな事がありまして若い絵かきさん達が,日本画の方には一科,二科とあって一科の方は古い人,審査員も古く,出す人も古い,二科の方は審査員も新しく,出す人も新しい絵を描いた。
洋画の方も一科,二科の制度を創ってくれと文部省に建言したがそれが容れられそうになかったので,それでは自分達で会を創ろうというわけで大正3年に,有島生馬,石井柏亭,山下新太郎,小杉未醍,坂本繁二郎,津田青楓,湯浅一郎,梅原龍三郎,斉藤豊作,等をはじめ田辺至や柳敬助もいて,この2人はあとで文展にかえりましたが,此れらの人達で第一回展を挙げたのが二科展の始まりであります,大正3年です。
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私が中学を出る頃には7〜8回ですが,私は中学3年の時に親父から絵かきになる事の了解を得ました,その頃は二科展の6,7回頃でしたか小出楢重さんが賞を貰った頃でした。
昭和5年私が丁度パリーに居た頃,私は昭和4年に美術学校を出てすぐパリーに参りましたが,昭和5年に独立美術協会が出来,兒島善三郎と里見勝歳だけが会員で他は会友で一向二科会の会員にしてくれないという不平がもとで,いろいろ理由はありますが本当はそうなんです,そして独立が分かれました。
昭和9年に松田文部大臣の時に文展改組の話しが出て,二科会の石井,有島,山下,安井,当地出身で彫刻部門をこしらえた藤川先生等を,今の芸術院会員当時帝国美術院と申しましたが其処の会員になりました。
それを会に諮らずに自分達でこっそりやった,それがわかりまして先生方を名誉会員に祭りあげた。先生方は面白くないから,確か,昭和11年に会を辞めました,そして翌々年に一水会を創った。
終戦前の昭和19年,31回展を準備していたが出来なかった,軍とその筋の指示で解散しなければならなかった,終戦になったら結成しようと申合わせの上解散しました。
その時私は会員の末席を汚していたが,現在は会員の中で私だけが解散時の会員でありました。
翌年12月に東郷先生が皆に呼びかけ二科を再建しまして,同時に戦争中軍に協力した向井潤吉とかそういう人達が行動美術を創った,翌年宮本君,田村君らが二紀会を創った。
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そして何年後だったろうか,東郷先生が今の二科会は社団法人ですが社団法人にしようという事になったが東郷先生と組んだら何されるかわからん,というので鈴木信太郎,高岡徳太郎君が分かれた,そして一陽会を創った。
独立,一水,行動,二紀,一陽,とこれだけに分かれた。
私は大正15年に美術学校3年の時に第13回二科展に入選しまして,それから半世紀以上二科に籍を置いているが免に角分裂する度に会員について相当の出品者がそちらに流れて行くわけです。
それでも現在は絵画部会員140名,会友187名,彫刻会員66名,会友65名,その他デザイン会員100名,会友50名,写真が会員60名でしょうか,会友100名です,この他に一般出品者がいるわけです,可成大所帯です。
いろいろ分裂しましたが今でも会員,会友が沢山居て出品者も多く日本に於ける在野団体としては手前味噌ではありますが一番盛んに活動している団体だと思っています。
そういうわけで二科会は日展以外の作家では何らかの形で関係を持たない人はいないという相当画壇に大きな影響力を持っている会であり,日展以外の在野の方が頭数から云えば多いですからね,だが此の頃は日展も文部省から離れまして今では在野とか官展というのは無いのですが,それでも現在ずうっと流れは同じです。
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ところで一水会は日展の方に参加しましたが二科系に独立,二紀,行動,一陽の会があります,その他に新制作,国展,春陽会などもあります。
日展の方は光風会,一水会,創元会,白日展,東光会,新世紀,いろいろありますが,これは日展に出し乍ら,そういう会を創っている。
在野の方はね,それぞれ独自の展覧会を開いています。
二科系と日展系は矢張りなんとなく仕事の上でも流れはその儘になっているようです。
話しが下手で纒りませんが私の会は昭和10年頃から既にピカソとかマチスなど外国作家の作品を陳列していますが戦後今までにメキシコ,エジプト,レバノン,アルゼリア,ポルトガル,スペイン,デンマーク,といった国と交換展をやりまして,フランスのサロン・ドウ・ドートンとはもう5〜6回,サロン・ドウ・コンパレーゾンとは2〜3回やっております。
ブルガリヤとは2回やりまして昨年の6月に会の関係者35人でブルガリヤに行きまして,ブルガリヤ作家との交歓をやりました。
海外との本当の意味での交換展は二科ぐらいなもので,他もこの頃やっておるように聞きますが本当の意味での交換展は二科ぐらいのものです。
このように国際的なことも二科はやっているわけであります。
二科展は本当は75回ですが終戦前後開催できませんでしたので73回という事でありますが,こんなに永く続いて,しかも繁栄している会であります。
大変手前味噌な話しを申しあげました。下手な話しでお聞き苦しかったと思いますが,どうぞ後で二科展をご覧下さい,有難うございました。
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