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 創立総会まで

 高松西ロータリークラブの創立は昭和44年4月14日でした。
 昭和43年から44年にかけて四国では8クラブが産声をあげました。そのうち香川は新しく5クラブができ,それまでの7クラブが一挙に12にと,7割も増えた訳です。その間の事情については,「日本ロータリー50年史」には何も書かれていないが,日本全体としては31年頃よりクラブ数増加が順調で,むしろ35年には,「原石も大分溜まった(増強ができた),玉磨き(教育)に専念すべきだ。」という記事があります。他にライオンズクラブに,クラブ数,会員数共に追い越されたとの記述もあり,これ等が影響したのかと思われます。また,当時四国は兵庫県と一地区を成していて,何彼につけて時の流れに遅れ,特に高松では1年足らずで2クラブを創ることになったのではないかと想像しております。
 44年1月16日,林,大林,玉津島と逸見が高松RCの例会後に呼ばれました。その席で高松RCのロータリーアン10数名に囲まれて,「新しく高松西RCを4月1日を目標に創るから,それ迄に知人を20名以上集めるように」と言われ,雲を掴むような話に唯驚くばかりでした。
 2週間後の1月30日に情報を持ち寄り,橘川氏も顔を見せ,「今後5人がキーメンとして新クラブを創るように」と言われて,銀行関係で作られた地区内の有力企業名簿を手渡され,再度努力を求められました。
 2月13日に初めて高松RCの例会を揃って見学し,2月20日には第一回の会員予定者が集められました。高松RCの方々や,他の方々のお力で14〜15名集まり,「これでいける」と安堵しました。
 その3日後,屋島山上に於ける高松東RCのチャーターナイトに5名が招待されました。目を見張るその盛大な式典に驚かされ,とてもこんな事はできそうにもないと思いました。その席上で金子知事の祝辞に「白鳥蘆花に入る」という言葉を使って奉仕を説かれたのが印象に残っています。
 3月に入ってからは毎週集まり,また中川,三宅(俊)両氏と事務局の松本氏に教わり乍ら,クラブ創立の色々な仕事を仰せつかりました。
 3月23日,クラブ創立前にも拘わらず,百十四銀行本店に於いてICGFがあり,5名がオブザーバーとして出席し,第一列目で一日ビッシリ勉強させられました。これがロータリーを知る上で非常に参考になり,後々クラブ構築の為になったと思います。
 4月14日夕刻から創立総会が開かれ,チャーターメンバー27名全員出席しました。席上で山下特別代表より,前年の8月から今迄の経緯を聞かせて戴き,斎木ガバナー他,大勢の方々から祝福されました。三宅パストガバナーからは,「魚釣りはハゼ釣りに始まってハゼ釣りに終る。ロータリーは例会出席に始まり例会出席に終る。」と判り易く説かれたのが印象に残っています。
 三宅(俊)先生はRC設立関係書類を持ってガバナ一事務所(当時は姫路)へ行き,そこで必要事項を記入して書類を作成し,斎木ガバナーの承認を戴いて,直接RIへ書類提出したそうです。お蔭で4月23日付でRI証認を,当時としては異例の早さで受ける事ができました。

チャーターナイトまで

 創立総会後は,毎例会ごとに高松RCの方からR情報があり,この徹底したR情報でチャーターメンバーを鍛えることに役立ったと思っています。
 6月12日に斎木ガバナーに依る公式訪問がありました。その時は私達から何も言う術もなく,専らR情報を受けるに終りました。しかし,「一生懸命にやるうちに必ず変ってくるものだ。求めて勉強してほしい。」とその時から何故か「ロータリーの健康優良児」と期待されていることが我々にも感じられました。
 その頃には,クラブ内の関心はチャーターナイトに向けられていました。来春を待たず,この秋11月9日に開催しようという事で,善通寺RCのチャーターナイトにできるだけ多数出席したり,チャーターナイト準備委員会を作る等,一気に走り出しました。
 6月14日は三宅(俊)先生に連れられて,岡山東,岡山北,岡山西南の3RC合同チャーターナイトに参加し,翌15日はすぐ引き返して高知東RCへと多忙でした。高知への往復の汽車の中は専ら我々のチャーターナイトの話ばかりでした。当日のお土産は橘川氏の知人からのカンカン石,演出は長尾先生の発案で光と音をふんだんに使い,アトラクションは当時新築したばかりの県文化会館で狂言を,バナーの作成もお願いし,またチャーターナイトの資料は久米氏が高知RCの知人から集める等,大筋が一挙にでき上り,これが結果的に総て成功する事になりました.
 7月には新年度となりましたが,まだ3ヶ月しか経過していなかったので,そのままの組織とし,むしろ来るチャーターナイトに重点を置いて準備が進められました。
 その準備に於いて一番問題になったのは会場の事でした。会場は早くから山下特別代表にお願いして,秋に新築される香川相互銀行(現在の香川銀行)本店を最初に使わせて戴くように予定していました。しかし仮登録の集計が進むにつれて,参加者が当時としては予想もしなかった300名を越すことになりました。これでは会場が狭過ぎると右往左往していましたところ,特別代表に一喝され,あわてて説明し,何んとかご了承を願って事無きを得ました。その為,チャーター当日は会員には元より,ご夫人方にも宴会が終るまで席が無く,専ら接待に務めて戴く破目になりました。
 その他準備には,お互い初めての者ばかりで,なかなかうまくいかず,最後まではらはらのし通しでした。それでも各々分担された委員が責任を持って処理し,余力の有る者,或いは特技のある者は自ら積極的に仕事をしてくれました。全員が一丸となって誠意を持ってやり抜いてくれたのは,流石に立派な経営者の集りであると,今更見直した次第です。
 当日については思い出は沢山ありますが三宅パストガバナーに,時間の都合で祝辞は2分位でお願いしたらその通りに立派に纏めた祝辞をして戴いた事が印象的でした。
 また忘れてならない事は,来訪ロータリーアンの予想外の友愛の精神に基づいたご協力でした。高松RC等のご年配の方々が,会場移動の際,6階までの階段を歩いて昇り降りして戴いたお蔭で,順調にスケジュールをこなす事ができたのです。
(チャーターメンバー逸見氏の資料と助言を戴きながら 平田廣 記)

1969〜70年度

会長 橋川克明  幹事 大林幸
 チャーターナイトの直後の11月24日に公式訪問がありました。若林ガバナーより,チャーターナイトのお褒めの言葉と共に,このカで積極的に奉仕の冒険に取り組んでほしいと求められました。今度も大した質問もなく,専らガバナーの又情報を拝聴する公式訪問となりました
 その後チャーターナイトの成功の満足感のうちに,それまで無理をして突走ってきた後始末に明け暮れました。それ迄はチャーターメンバーの退会を認めずにいたのを止む得ない方はこれを認め,その一方会員の増強に励みました。これで出席率もやや安定するようになりました。
 4月9日には大阪の万博会場での万博ロータリーを高松南RC,観音寺RCと共に一日を受け持ち,多数が参加しました。しかし例会運営は高松南RCの太田氏に一任したものになり,ただ出席し,見学して帰りました。
 年度中には香西シオンの丘に温室を寄贈したのが唯一の対外奉仕活動でした。
 若林ガバナーは「クラブ数が増えて,一人の地区ガバナーでは公式訪問だけで手一杯となり,地区管理が充分できないから」との理由で,地区を兵庫県と四国に二分割するよう提案されました。RIもこれを承認した為,高松RCの中川氏が急遽ガバナーノミニーとして米国へ飛ぶ事になりました。
 当時例会日は月曜日でしたが,事業上に支障がある方が多く,金曜日に変更された。しかし事務の松本氏には,それ迄の琴平RCとの関係もあって,月一回だけでも出席をお願いすることゝしその為に第一例会のみ夜として今日に至っております。

1970〜71年度

会長 林宥治  幹事 逸見金蔵
 この年度になって大きく変った事は,それまで出席率が92%位迄であったのが,一挙に97%台となりました。それは欠席常習者の退会にもよるが,出席についてのR情報が徹底した為でした。その後当分の間,地区内で上位10位内にいつもはいるようになりました。
 職業奉仕は当時としては立派な教育計画を立て,「奉仕こそ吾がつとめ」を配付して講読を勧め,時にはその中の事例研究をする等,その理解に努めました。
 国際奉仕については,何もできそうでなかったので,RI財団への毎年100ドル寄付積立を呼びかけました。5名の協力を得て,プラトウが100%から300%へと上りました。これは当時としては独特のものであり,その後会員の大部分が100%寄付をしていると,IGFで話題になった事もありました。
 年度後半になって岡崎氏が韓国へ旅行し,戦前教鞭を執っていた生徒達に会ってきた卓話が基となり,先方の希望しているテープレコーダーを金泉(キムチョソ)RCを通じ牙川国民学校へ贈ろうという事になりました。しかしなかなか思うように進展せず,翌年度へ繰り延べになりました。一つの事をするのさえ大変な手間と難しさがある事を痛感させられました。
 この年度から早くも5周年記念事業を予定して,月1,000円づつ特別積立てる事にしましたが,これは途絶えることなく今日迄続けております。

1971〜72年度

会長 岡崎時則  幹事 稲井敬一郎
 RI会長ターゲットは「善意はあなたから」でした。
 前年度よりとりかゝっていた一日一善運動がこのターゲットにピッタリという事で,「善意のノート」を作り,弦打,亀阜小学校の両校の生徒に配付して記録をしてもらうようにしました。亀阜小学校の教育熱心な先生のご協力で,生徒の記録を取り纏めて一冊の報告書を作って戴きました。先生から「修身的教育が全く忘れられ,善意という言葉さえ無くなりかかっていた時なので,・・・」と客話され,やはり教育の場は指導者に依るものと,つくづく考えさせられました。
 また前年度からのテープレコーダー寄贈の通関手続等も順調に運び,亀阜小学校の生徒の図画と一緒に送る事ができました。暫くして牙川国民学校からも生徒の図画と礼状が送られてきて,これでやっと奉仕らしい事が一つできたと,皆で喜び合いました。
 青少年奉仕では,弦打青年団との交流が始まり,例会に阜話をお願いしたりしました。その他ではそれ迄はどうしても会員数が10〜35名程で低迷していましたが,一挙に42名に上放れしました。また初めて企画されたと言える会報が中村会報委員長により出された事などがこの年度の目立ったものと言えましょう.

1972〜73年度

会長 秋山映壹  幹事 高岸正剛
 年度直前の5月,シドニーの国際大会に高岸氏が参加し,得意の英語で友好と交流を深めてきました。その報告の中でニュージーランドのポンドRCにメークアップしたとの事で,今後クラブぐるみで交流しようと,早速手紙を出し,返事も来ましたが,結局長続きはしませんでした。
 当時農協が主体となり,南米その他からの留学生を受け入れていたのを,笠井君が例会に招待しました。彼等と弦打青年団と一日一緒に交流させて,讃岐うどんの手打ちを実演させる等で大変相互に好効果をあげる事ができました。
 また前年度からの韓国との親善も,岡崎氏他数名の会員がサッカーボールを沢山持って牙川国民学校へ行き,金泉RCの例会にも出席しました。ソウルの金浦空港で税関室長に呼び出されて入国に手間取った事,乗ったタクシーが横転したけれど無事だった事等,今では懐かしい想い出となっております。
 その他「平和への七つの道」を会員に配付したり,この年度は国際奉仕の年度の感がありました。
 社会奉仕としては,当時騒音が社会問題とされていましたので,高松市へ騒音計を寄贈しました。
 10月21日高松で地区大会があり,コ・ホストクラブを務め,また当クラブの5周年記念委員会を発足させた年度でもありました。
 この年度に,それ迄雑然と溜っていた文書類を整理し,目録を作成して,原内邸内に「ロータリー文庫」を設置しました。その後百十四銀行西支店へ移されてはいます。これは良いことですのでこれからもこの管理の責任者を指名する等,文庫の保存有効活用につとめるべきだと思います。

1973〜74年度

会長 吉田繁秋  幹事 玉津島順一
 4月28日には創立5周年記念式典が催行され,記念事業として西宝町のグリーンベルトに植樹が行なわれました。
 その年度の早々の8月に問題が起って結果的には熱心な一会員が退会することになりました.特にクラブの発展の為に多大の貢献をされた方だけに惜まれます。然し事件の経過は安易な妥協が許される程甘いものではなく,又問題を円満解決しようと夫々に努力しましたが尚更悪い方向へ展開していった感がします。この出来事により,「会員にとってRCはどうあるべきか」を真剣に考える良い機会となり,それからは早目早目に声を掛け合い,問題が大きくならない内に解決するようになりました。又会員全てがお互いに専重し合い,平等に付き合える雰囲気ができましたので,事件そのものは残念な結果となりましたが,却ってこれが良い教訓になったと今では思えるようになっております。
 その他GSEの受け入れは難しい事が多くて,大変苦労したのが印象に残っております。また身障者を励ますチャリティーコンサート「香川合唱フェスティバル」に協賛して社会奉仕を行ないました。

1974〜75年度

会長 笠井京一郎  幹事 田村貞光
 年度前の6月から高松は大変な渇水状態が続いていました。市民が自分の水確保に精一杯であった時,秋山,原内,別枝,田中各氏は連日給水車に乗って水を配って走りまわり,市民に大変感謝されました。当人達は「ただ職業奉仕の一つだと自然にできた」と黒く日焼けした顔をほころばせていました。これでようやく会員各自にロータリーの奉仕の精神が深く行き渡り実を結びつつあると感じられました。
 12月20日の渡辺ガバナー公式訪問では終了後,懇親会にご夫人も参加して戴き家族忘年会も兼ねて和やかに,かつ盛大に行われた。また8月の家族会は,高松南RCと合同で国鉄(現在のJR四国)宇高連絡船の土佐丸船上で行ない,当クラブより120名余りも参加しました。春には小豆島に於ける行楽家族会とこの年度は親睦に力を入れたと思います。

1975〜76年度

会長 逸見金蔵  幹事 長尾初次
 この年度は三宅先生がガバナーの年で逸見会長は機会をとらえて奉仕の旗振りに専念し長尾幹事は企画力,行動力で諸事を確実に処理していきました.然しオイルショックが経済の末端まで浸透した時であり,ロータリー活動にも自ら限度のあることを知らされた年でもありました。
 その中で前年度同様,特に親睦に力を入れ,新年宴会も100名以上出席者があり,忘年会,年度末の家族会も大勢集まりました。中でも特に思い出になっているのは,8月末の台風の豪雨中,塩ノ江温泉で,海外技術研修生も招き,阿波踊りで賑やかに雨も風も吹き飛ばした事です。
 又増強にカが入り,優秀な会員5名の純増を見ました。この年度から社会奉仕として,豊島神愛館の訪問が始まり,今に継続しております。

1976〜77年度

会長 藤原高夫  幹事 久米房之助
 この年度で特筆すべきものは,職業奉仕,社会奉仕各部門に小委員会を設けた事です。久米幹事の基に,ロータリーで最も特徴のあるものであり,重要であるとされているこの職業奉仕が具体的に行なわれ始めました。職業奉仕として,雇主,従業員関係委員会,四つのテスト委員会,職業情報委員会,実業及び専門職業委員会に分け,各々がアンケート等に依り積極的に研究されました。社会奉仕も環境委員会,心身障害委員会,老令市民委員会と分けられました。
 国際奉仕としては,米山奨学生(台湾・韓国)を招き,一日ホームステイと市内観光を行ないました。例会で客話をして戴き,会員の方々に米山記念奨学制度に対してもっと関心を持つのに役立ったと思います。
 この他,香川分区のIGFを担当したのもこの年度でした。

1977〜78年度

会長 原内明  幹事 赤井功一郎
 この年度の5月に,国際ロータリー年次大会が東京で催されました。当クラブからも16名の参加があり,国際親善と交流に大いに成果を挙げました。
 職業奉仕,社会奉仕共に前年度と同じく小委員会制度を取り入れました。これは何年か続いたようですが,途中立ち切れとなり,創立20年目に復活しました。
 社会奉仕としては交通事故防止運動の一環として弦打地区の老人,幼児にワッペン「目玉ちゃん」を配付しました。
 職業奉仕では当クラブの医師団のご協力で会員の健康診断が行われた。これは現在迄継続奉仕活動とされております。

1978〜79年度

会長 大林幸   幹事 中村詩郎
 10周年記念式典は4月15日例会場で催行されました。記念講演は梶浦ガバナーに依るものでした。記念事業としては高松市の新市庁舎玄関前に黒松を寄贈したのをはじめ,鬼無小学校にロータリー文庫を,また米山記念奨学会に寄付を致しました。
 記念事業を行なう年度には他の奉仕活動が等閑になり易いものですが,継続事業ながらも活発に行なわれました。会務奉仕では,R情報の充実,活発な親睦活動,例会場の花飾り等,10年の節目に会員間にフレッシュな行動意欲を盛り上らせました。また香川分区内の他クラブも丁度同じような時期に記念年度となり,多くの記念式典が催されました。
 この年度には,クラブ定款及びクラブ細則を見直して一部変更し,またクラブ内規を整備再編成し,10年を期して一層の飛躍を期待したものでした。



高松西ロータリークラブ
創立10周年記念 S54.4.15

 以上,創立よりの10年間の思い出を述べてみました。私(平田)はチャーターメンバーではなく,創立当時の頃は入会しておりませんでしたので,逸見氏に原稿をお願い致しました。逸見氏は,非常に詳しいレポートを書いて戴きました。紙面の都合上,半分以下に削り,元の原稿とは異なったものになってしまいました事をここにお詫び致します。
 創立より5年以後から10年迄の5年間は「十年史」に詳しく書かれていますので,創立より5年目迄を中心に述べてみました。各年度につきましては,全く独断で私が選ばせて戴きました事をご了承ください。