TOP > 25周年記念号 > 故 村上久夫氏を偲んで

 

文 : 谷本 憲一

 

村上氏

 

 

 入会年月

昭和45年8月

 

 死亡年月日

平成5年7月14日 享年 74才

 

 ロータリー歴

23年


 私のロータリークラブでの良き飲み友達であった村上久夫氏が亡くなって早や1年がやって来た。年令もロータリー歴も共に2年くらい先輩であった彼,だがなぜか気が合いロータリー内では種々な相談ごと迄御互にし合う仲になっていた。それは今思い出してみると私が入会早々食事に御招待し,その日午前様になるまで痛飲し,長々と戦争の話がはずんだそのせいではないかと思っている。村上さんは南太平洋のフィリッピン,ジャワ,チモール,マレーと,陸軍歩兵部隊で,私は海軍航空隊で,共に渡り歩いた所が同じ土地が多く,話が夜おそく迄続いたのもそのせいだったと思う。彼は,20代の殆どの歳月が南方戦線の硝煙の中であったと云う。昭和17年3月ジャワ島スラバヤ郊外で河を挟んで烈しい銃撃戦をやった話,そして一夜明けるとオランダ軍が全面降伏して来たと云う話,そして戦い終り茫然と地面に座りこんで居る前を,戦友の屍体を運ぶ担架の列がつぎつぎと通って行く。そして担架の軋む音,この音は生涯私の耳底から消えることはないであろうと涙を流しながら話していた彼

  戦(たたか)いの後(のち)の静寂(しじま)よ死(し)の担架(たんか)
    カンナ燃(も)ゆるをきぎと行(ゆ)くなり
          (戦場での村上氏の作)

 だが,彼が戦った思い出のスラバヤに私が赴任したのは2年以上も過ぎて,昭和19年6月中頃だった。少し平和を取り戻し,空襲もあまり無く,航空隊でも船団護衛の任務が多かった時代であった。現地人の女性が烈しい銃撃戦のあったその河で水浴しているのを木の陰から見ていたものだ。当時はスラバヤの街の中に立派な軍用橋が係り,その橋のふもとに2階建ての酒保(軍人酒場)が出来て,1階が陸軍,2階が海軍と別れて使われていた。その様な建方だったので,よく陸海軍兵士が入りみだれて喧嘩になった話等‥・…
 さて,谷本さんは飛行機乗りやから良かったなあ‥‥‥だが,こちらはこちらで大空で一対一の孤独な戦い“死して屍ひろってくれる老もなし”ですよと言い返したのを思いだす。
 彼が祖国日本に帰って来たのは,昭和21年5月と聞いている。私は終戦直前の昭和20年3月末,他に土居さんもニューギニア戦線で苦労され,遅れて復員された由,私はたしかに皆様が云われるように運が良かったのかもしれないと思ってはいるが‥・
 昭和町で稲本さん設計で,立派な御宅を新築され,披露祝いに呼ばれたのは平成5年6月12日であった。その節は上機嫌で挨拶されていたのに,それから1ケ月後に亡くなられるとは,最後に一人娘のお嬢さんに立派な家を残し,公私共の役目をすまされ逝かれた彼。
 今は他界された村上久夫さんの御冥福を心よりお祈り申し上げるしだいである。