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日本美術院評議員東京芸術大学教授 田渕 俊夫

 ただ今,ご紹介いただきました田渕でございます。詳しい私の経歴のご紹介ありがとうございます。日本美術院創立百周年記念高松展を高松西ロータリーの協賛を得て開催でき,それを機会にこうして今回お招きいただき,とても感謝しております。(ここで会場のマイクの調子が悪くなり,調整作業が入る)
 こうしてマイクを持ちますと,しゃべるより歌う方が良いようで(笑い声),それにしては,少し明るくて戸惑ってしまいます(笑い)。
 高松,この地には何度かうかがっております。一つは県展の審査で訪れる機会があってで,その時には,日本画を多くの人がやっておられる様子で,大変うれしく思いました。
 それから能舞台の鏡板の松を描くために,いろいろ迷った末に,栗林公園の松を思い出しまして2,3度こちらに誘っていただけることがありました。先ほど,岡田さん(本ロータリークラブ30周年記念実行委員長)のご紹介にもありましたが,家内の実家の高知に行くより,こちらに来ることが多く,こんなによく通ってなつかしい所で,お話できることは,とてもうれしいことです。
 今日は日本画について,ちょっとご説明したいと思います。私の顔を見ているより,実物の絵のスライドを見た方が,分かりやすいと思いますので,少しばかりお話して,スライドの説明に移りたいと思います。
 その前に少しだけ,日本画について話をさせてもらいます。
 日本画というもの何なのか。日本画,あるいは洋画とかいいますが,その「日本画」という言葉はよくご承知だと思いますが,では日本画とは一体何か,と問われると,私自身もよく分かりません。
 そこで,一つ絵具というものについて見てみましょう。日本画の絵具というのは,それ自身はとても硬い,美しい石を砕いて出来たものです。石は,ガラスもそうですが,砕くと真っ白くなります。日本画の石は,たとえばクジャクイシはそれ自身の色があり,砕いて粉にしても白くなりません。それ自身の色を保っています。絵具はそんな石や貝殻を砕いて粉にして造っています。こういう絵具は油絵や水彩絵具のように接着力はありません。
 それをニカワ,動物の蛋白質で造ったニカワを使って描いてゆきます。この絵具は扱いが難しく,水彩絵具のように混ぜて使えないものですから,色彩の数が非常に少ない。ニカワを使いますから,暑ければ腐ります。寒ければ固まり,いろいろ悪条件があって扱いが難しい。
 そんな絵具を千数百年前,もう法隆寺の壁画が描かれた時代よりまだ前から,同じような絵具を同じような技法で使ってきました。千数百年も続いている絵の材料を今も私たちは使っていますが,その絵具,その技法は,実は世界に誇ってもよいほど,長く使われてきました。
 たとえば油絵は,せいぜい14,5世紀くらいに開発されたものです。その他の絵具もその時々で盛んに使われましたが,現在につながっているものはあまりません。日本画だけが綿々と続いてきたのです。

 ところで,この「日本画」という名称はどうして起こったのでしょうか。明治以前,日本画という表現はありません。実は明治になって油絵が入ってきます。狩野派などいろいろの日本の各流派の総称として,この言葉が明治以後に使われるようになったようです。
 日本美術院はその後,海外から入ってきた技法をいろいろうまく混ぜながら,新しい日本画を築いてゆく努力をして今日に至っているのです。百年の歴史は,その中では,いろいろと苦しい,つらい時代があり,戦争があり,世に認められない時代もありました。百年,これを続けてきたというだけでも,それは大変なことだと思います。
 前置きが大変長くなりましたが,これからスライドをお目にかけながら説明させてもらいます。
 これが,先ほど申し上げました絵具の粉状のものです。
 これは同じようなリョクショウです。粒子があります。お砂糖のようなもので,ザラザラしたものを,紙に定着させることは大変難しいことです。
 次は,今の絵具を使っているところです。これは法隆寺の金堂の復元作業です。
 次に,これは伝画ですね。次は,時代が下って平安時代の絵ですね。次は,これは墨です。
 次はさらに時代が下って桃山時代のものです。城郭を飾る豪快な絵です。
 これは障壁画として,強い色彩を塗った画で,いわゆるお城,神社,仏閣を飾ったものです。
 これは光琳の画ですが,このころになると,様式化されてきます。
 次,こうした歴史を通して新しい明治維新になった。これまで鎖国だった。それまでもいろんなところから,たとえば南蛮文化など入っていますけれど,ほとんど(日本は)辺境文化といいますか,いわゆる日本人的な文化を仕上げて,ずっと続いてきてます。明治になって,どちらかというと,日本人が新しがりやですから,西洋からの写実的な油絵が入りますと,そっちの方が人気が出ますね。
 そして日本画がすたれてきます。これも,そのころの画です。そうなると,日本画家たちは食べて行けなくなりますが,やはり日本画の巻き返しが起こってきます。
 そこで,東京美術学校,いまの東京芸大が出来ます。(提唱したのは)米国人のフェノロサ,日本には良い文化がある。なぜ外国かぶれをしているのか。ということで,もっと日本文化を見直そうではないか,ということで日本に学校をつくろうということになりました。
 明治22年ですか,開校します。その時の校長が岡倉天心という人です。その学校の第1回の入学,卒業生に横山大観あるいは下村観山,2回目が菱田春草というように,初期の人たちが出ます。この人たちは,われわれが今やっている院展の草創期のメンバーですけれど,やはり天心という人は,日本画というものを作り直し,新しく入ってきた油絵などの技法も入れて新しい日本画をつくろうと邁進します。
 けれども,東京美術学校は日本画だけでスタートを切ったものですから,彫刻とか油絵とかがあとから入ってきて,いろいろと事件が起き,天心は追い出される。そして校長を辞めることになって,それからいろいろとあって,大観とか春草とか17人ほどが集まって,それでつくられたのが初期の日本美術院です。明治31年のことです。
 その第1回展のために横山大観が描いたのが,この「屈原」です。屈原という中国の楚の憂国の士です。すごく出来る人なもんですから諫言にあって左遷されます。しかし,悪いことをしていないのですから,嘆願するのですが認められません。最後に自殺してしまいます。それを大観は天心の姿に想像して描いたもので,天心の怒りを表現したものです。第1回の院展というのは,そういう厳しい状況の中で開催された訳です。
 さて,こうして新しい日本画の模索はこうして始まる訳ですが,「新しい日本画」とは何でしょうか。
 それまでの日本画は線を使って描いていましたが,線をなくして,ぼやっとした,いわゆる「朦朧体(もうろうたい)」という手法で絵を描くようになります。ところが,そうなると院展がだんだん不評になり,経営的にも行き詰まります。
 そのころの絵が,この有名な(菱田)春草の「落葉」です。
 院展は解散してしまいます。その後,天心,大観,春草らは東京を離れます。そのころのことですが,文部省が「文展」という展覧会をやっていました。そこで,この人たちが絵を出品して活躍するようになります。
 初めは天心や大観が主体となっていますが,大正時代になると,やはり個性的で自由な絵が出てきます。
 次に,これがそのような有名な絵で,こんな作品が出るようになります。今村紫紅の有名な「蘇州の夕」です。象徴的なところが,新しいところです。
 これは前田青邨の「阿修羅」です。院展では同じような力の人が何人かそろって出て来ることがあります。最初は大観とか春草とかですが,このあとは,この前田青邨とか小林古径とかです。
 はい,次を。これは安田靫彦の「大和のヒミコ女王」です。これは今回のでも出ています。とても,きれいな歴史画です。よくご覧になって下さい。
 これは小林古径の「髪」です。
 次,だんだん個性的なものが出るようになって,これは田中青坪という人の「孔雀」です。だんだん絵具の塗り方が個性的になって色を強く出そうとするようになって来ます。
 これは,岩橋英遠の「鳴門」です。今までの絵はどちらかというと,横縁で描いていたのですが,縦で描いています。新しい表現です。こんなになると,分かりますが,縦ですから絵具がたれ流れてきた感じになっています。

 次のこれが有名な片岡珠子先生の「面構」です。
 これは有名な平山先生の「天山南路(夜)」ですが,昭和35年の作品です。私は同36年,大学に入るのですが,先生は35年にこの作品でデビューされました。この絵も今回の会場に並んでいます。これは先生のライフワークである「シルク・ロード」シリーズの最初の作品ですね。
 これは松尾敏男先生の「樹海」です。日本画というと,どうしても花鳥風月,歴史上の人物が多く描かれるんですけれども,これは構成的に力強く描かれています。構成的にいろいろ工夫するようになったのは,この作品からです。私なんかは,院展に出し始めて,まだ入選するか落ちるかのころでして,この作品が大観賞をもらって,われわれに大きな影響を与えた作品です。
 次,これは恐らく来週に来られて講演されるはずの下田義寛さんの「ペルシャ門」です。この方も院展の一つの方向を作られた大変な功労者です。ダブル・イメージ,今までになかったダブル・イメージ,イメージが重なってつくるところ,とても新鮮で一世を風靡した技法です。
 次に,これは私の「泊」という作品です。最近は旅行も簡単に行けるようになりました。スケッチも簡単に出来ます。そして,これらも,そうした種類の作品です。私のもそうです。もしよろしかったら,穴のあくほど見て下さい。
 そして,これが最後の作品です。小倉遊亀先生の作品です。なぜ先生の作品を最後に持ってきたか,ですが,先生は104歳になられます。お元気です。院展も絵書きも長生きするなあ,と思っていただければ,最後の締めくくりになるのではと思ったからです。
 以上,駆け足できて,説明不足があったり,分かりにくいところもあったと思いますが,どうもありがとうございました。